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☆凶悪事件の判決ラッシュ!
司法制度・法治主義の大前提は果たして好ましいものか?
さる5月21日、東京・JR渋谷駅で乗客の男性が見知らぬ男に刃物で襲われて重傷を負った事件は、夕刻の都心を震撼させた。
ほどなく、埼玉県朝霞市に住む32歳の渡辺知宏容疑者が逮捕された。調べによると、渡辺容疑者は男性と同駅のエスカレーターでぶつかったことに腹を立てて凶行に及んだとしているが、真相のほどは定かではない。
何かと世間を騒がせる凶悪事件だが、今月は昨年と今年で注目された凶悪事件の判決が相次いで下された。
まず22日、広島地裁では今年1月に広島刑務所から脱走した元『怒羅権』幹部メンバーで、中国人の李国林(40歳 =強盗殺人未遂などの罪で服役中=)に懲役2年4ヵ月の判決が下されている。
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検察側の求刑は懲役4年であったが、脱走の動機として「中国に住む実父や養父母の安否を確認しようとした」点が「同情の余地はある」とされた。李はさる1月11日午前、運動時間中に隙を見て脱走。高さ4メートル以上の塀を乗り越えて逃走し、市内の民家や事務所に侵入して衣類や飲食品など93点以上を盗んだ疑い。脱走から約3日後に市内で逮捕されたが、李のような凶悪犯が脱走することで世間を恐怖に陥れ、重大な不安を引き起こした罪は大きい。この事件では広島刑務所長を含む13名の職員が処分された。
今回の判決については広く議論されるところだが、母国・中国なら最初の処罰からして死刑に処されていてもおかしくはない。刑務所での処遇についても日本に比べ、母国なら劣悪な境遇である。その上、脱走事件など起こそうものなら自身の身体がどのように扱われるかも分からない。それ以前に事件を起こした時に警察官の銃撃を受けて蜂の巣にされていたかも知れない。
これこそが不良外国人の増長を未然に防ぐものであり、最近の中国では以前のようにおおっぴろげな公開処刑はやらなくなったようだが、残留孤児2世3世ほか在日中国人の凶悪犯罪が増加している日本は、かの国がどのような措置をとっているかに学ばなくてはならない。
中国が野蛮で遅れた国であり、日本は近代的で進んだ国…という驕り高ぶった発想でいる限り、中国系犯罪組織の根絶も不可能だろう。
次に昨年6月、大阪府大阪市平野区のマンションで母娘が殺害された事件で、殺人罪などに問われた朝鮮籍の文青児(ぶん・せいじ =日本名:文原= 36歳)に対して大阪地裁は無期懲役の判決を言い渡している。
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この事件は被害者の母娘も在日朝鮮人で、元交際相手で加害者の文も在日朝鮮人。これを被害者が日本人で、加害者が在日であると勘違いしたのか、韓国メディアが「公正な捜査を求む」としたコメントを出し、加害者を擁護するような珍事が起きてもいる。
朝鮮人が朝鮮人を殺そうと何しようと勝手に同胞同士でやっていろとしか思わないが、日本国内で2人を殺害しておいて無期懲役は軽過ぎる。犯行手口について「執拗で残忍」、犯行動機について「復縁を迫ったものの仲直り出来ないことで自暴自棄になった」「身勝手で斟酌すべき事情はまったくない」としていながら、その判決が無期懲役なのか。
今回の裁判は「裁判員裁判」で裁かれた結果のようで、普通の日本人でさえどうなのか怪しいご時勢、これが在日からの「帰化人」によって裁判員が占められていたとしたら尚のこと怪しい。
前述した広島での裁判についても裁判員が関わっているのではないかと思うが、「故郷にいる父母」「身を案じた」などの文言が裁判に関わる者らの心情を突き動かしたのではないか。
大体、故郷の両親を思慕するような「真っ当な心」の持ち主であったとしたら、外国(日本)とはいえ最初から凶悪犯罪になど及んでいない。そうした日本人が想像するような心の持ち主ではないから平気でひき逃げや衝突を繰り返して逃走を図るし、人に向けて平気で拳銃を発砲したり出来るのである。この辺りを日本人と同じ感覚でイメージすると日本人は簡単に騙されてしまう。
裁判と裁判員制度について、最近、私が視聴した映画をご紹介したい。今から20年以上前に制作・公開された映画だが、三谷幸喜脚本の『12人の優しい日本人』。
同作品は「もし日本に陪審員制度があったら」と仮定しての物語だが、映画のほかに舞台劇としても上演されている。
教師やサラリーマン、商店主、主婦など年齢や立場が様々な12人が陪審員として選出され、さる男の死亡事件が「無罪」か「有罪」か、はたまた殺意があったのか無かったのかを丁々発止のやり取りで問う。
同映画がつくられた91年の日本にはまだ裁判員制度というのは存在しなかったが、同制度がその十数年後に導入されたことを考えれば、それを見越して作られた映画であったとも考えられる。おそらく、その頃から日本では裁判員制度の導入が議論され続けていたのだろう。
映画の大部分が裁判所内の一室を舞台としているが、法律家ではなく、ただのド素人がそれぞれの時間を削って刑事事件の有罪・無罪を分かりやすく論じ合っている点が面白い。時に激しく、時に冷静且つ論理的に。自らの信念を貫こうとする者も安易に他人の意見に流されたり、考えを変えるシーンもリアルに描かれている。
「有罪だ」「いや、無罪だ」「私も無罪だと思う」「俺も無罪」で、採決をとった直後に誰かの論理的且つ情熱的な説得によって11対1の比率は瞬く間に逆転。「やはり有罪だな」「俺も有罪」「ちょっと待て! そんなのアリか?」「誰が何と言おうと有罪だ!」「さっきと違うぞ! アンタ無罪って言っただろ」「今さら何だよ!」「また振り出しかよ!」…そんなやり取りが延々と繰り広げられて何度採決しても全会一致にはならない。
酒乱で定職にも就いていない夫と別れた21歳の若い女性が女手一つで5才になる子供を育てており、そこへ別れた夫が寄りを戻そうと迫ってきたため、口論となった末に揉み合いとなったバイパスで夫がトラックに轢かれて死亡。これが殺人罪か無罪か、あるいは傷害致死に該当するかを論じ合う設定である。ちょうど大阪の事件に似た点もあるのではないか。
有罪・無罪をめぐって同意見だったと思っていた仲間が突如として敵側に。この論拠を崩してみたまえと言わんばかりに1人の陪審員が無罪、有罪、また無罪、またまた有罪と考えを二転三転させ、激しく攻守を入れ替える。そのどちらにせよ事件の加害者と被害者の双方に対して個人的な感情など様々な要素が複雑に絡み合う。
全員の意見が一致しかかったところで、有罪にせよ無罪にせよ、ただ1人が逆の意見を主張する勇気…。同意せよと迫る全員を前に何ら論理的な実証が出来ないながらも「それは違うんじゃないか…」と引っかかる思いを吐露。おそらく1人の裁判官が頭の中でめぐらせる逡巡を複数の人間によって描き出しているのだろう。
自分たちではなく、他の陪審員によって審理を委ねるという手もあるが、それをするにしても全員の意見は一致を見ない。…やはり陪審員に選ばれた自分たちの手で。
裁判審理と言うよりも犯罪捜査の域にも踏み込んだ激論と検証の結果、陪審員たちは静かに確かな結論を導き出して映画はエンディングを迎えるが、劇中に出てきた有罪ありきのキャラクターのように是が否でも有罪と厳罰を求める向きも正論ではある。映画も現実の世界もドロドロとして残酷で、何が真実で誰の言うことが嘘・偽りとも分からない。
映画で描かれた心理描写は裁判官がどのようにして判決を導き出すかを描いているようで、実際の裁判員制度においても劇中と似たようなやり取りが行なわれたのだろう。
こと外国人犯罪に限って言うなら、犯罪グループ・怒羅権を形成する中国残留孤児なるものはその大部分が偽者で、在日朝鮮人にせよ大半が不法入国者とその子孫であるという前提に立って、あるいはその事実を一考にして審理が行なわれたのか。おそらく、そうではないと思われる。
☆厳罰下せ…は簡単だが、抑止力どころか増長させる一方の法制度
このブログは思想に基づいて論じているので、ここからは裁判や裁判員制度の外、そこから先の話としてお読み頂きたい。
凶悪犯罪を起こした上に脱走までした者に厳罰といったところで、求刑からしてたかだか4年。2人殺したことに鑑みれば無期懲役という軽い刑罰で納得させられてしまう現行の司法や法治主義にそもそも限界があるのではないか。
明治以降の近代日本になって議会政治とともにもたらされた大きなものは司法・法治主義である。その司法や法治主義も絶対的なものではない。それどころか、極めて不完全なものである。戦前も戦後も外国人犯罪者をのさばらせ、増長させてやまない。
それ以前の日本に外国人犯罪など存在しないし、そもそも外国人など入って来ようもない。憲法やら刑法・民法とは別個に国・社会を成り立たせる「法」が何を置いても大前提にあって然るべきだが、現行では法律の条文やら法例・判例ばかりが重視されて本来的な意味の法がおざなりにされてしまっている。
12人の優しい日本人では劇中、陪審員たちが絶対的とされている目撃者証言や加害者の供述そのものに矛盾や嘘・偽りがあったのではないか、ということに気付く。そして全員が納得し得る確信と結論を以って審理を終えるわけだが、物事の前提にそもそも誤りがあったということに考えをめぐらさなければ物語におけるクライマックスはなかっただろう。
この事件について無罪か有罪か、有罪ならどの罪に該当するかを審理せよ!…と与えられた課題をこなすことは実は容易であって、審理のために寄せられた物証や証言、経過の全てに矛盾や嘘・偽りはないか、その前提を検証することこそ至難中の至難である。人の心理や事件現場の状況に至るまで主人公たちは体当たりのアクションで再現し、事件の実像に迫る。決して机上の議論だけでは結論は導き出せない。
司法の在り方は決して理念で言われているような平等・公正なものではなく、元より歪んだ在り方の司法が外国人犯罪者に緩やかな刑罰しか下さないことでさらなる外国人犯罪者の増長を招く。
栃木・宇都宮地裁では間もなく、留置中に糖尿病患者の中国人が死亡したのは警察官の責任であるとして4名の警察官に責任を問うた裁判が民事・刑事の両方で争われる見通しである。
犯罪者の家族が臆面もなく警察を訴え出た裁判が厳然たる立証を以って退けられるべきは勿論だが、与えられた司法制度・法治主義の中でしか判断することを許されない現代日本人には、法制度が設けられた近代国家体制という大前提からして突き崩すことがいずれ求められるのではないか。
JR渋谷駅における通り魔的な事件は確かに凶悪事件に違いないが、マスメディアが報道に狂奔することで情報の受け手はそれを事件として受け取る。その一方では事件の背景が覆い隠されていたり本来的に関心を持つべき事柄から目を逸らされていたりするなど、司法・立法・行政そしてマスコミで成り立っている体制は決して望ましい形とは言えない。
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