2020年04月01日

志村けんさん逝去…

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画像:3月29日夜、チャイナ・ウイルス感染による肺炎発症で亡くなられた志村けんさん


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★関連ブログ「カルト撲滅&『ストーカー規制法』改正運動!

政教分離を求める会 活動月報(2月半ば〜3月末)(3月31日付)
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☆私たちが渇望し続ける家庭の茶の間

「日本のチャップリン」が描いて提供してくれたもの…

 前エントリーに引き続き、チャイナ・ウイルス感染による志村けんさんの急逝について考察したい。まさに「日本のチャップリン」と形容するに相応しい人だった。

:前エントリー
2020年03月30日 時代は反チャイナ・パンデミック!
http://blog.livedoor.jp/samuraiari/archives/52120937.html

 今回の件で何に驚いたかと言って、志村さんの急逝そのものもそうだが、お亡くなりになられた直後、遺族が遺体との対面さえも叶わなかったということ。

 入院先の病院から火葬場へ直行、志村さんの実兄のご自宅には遺骨が届いたのみだったという。

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画像上下:ネットニュースより
棺の出棺だけを見送った遺族たちの思いは、きっと志村けんさんに届いたことだろう
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 血の繋がった実の兄弟さえ、その顔を見ることは叶わなかった。

 訃報が伝えられた当日、ご自宅前でマスメディアの直撃インタビューに応じられた実兄の知之さんは入院中の見舞いや看病はおろか、最後の見送りさえも叶わなかった無念さを吐露したものだ。

 知之さんの奥さんであり、志村けんさんにとって義姉にあたるサヨ子さんは「盛大にお見送りしたかったけど…こんなことってありますか」と声を詰まらせたが、遺族ではなくとも「こんなことってあるのか!?」と怒鳴り散らしたい。

 遺族なら、たとえ制止を振り切ってでも、感染覚悟で棺桶を壊してでも死に顔に労いと感謝の言葉を伝えて見送りたかったことだろう。

 それにしても、最後くらい何とかならないものだったのか? たとえガラス・ケース越しだろうと、袋に密封されていようと、そこは一目、遺族に見させてやりたかったものだ。

 だが、遺族が遺体との対面さえ叶わず、最後のお見送りも満足に出来なかったというのは何も志村さんだから採られた措置ではなく、全てのチャイナ・ウイルス感染での犠牲者とその遺族に共通することなのだろう。これも志村さんの犠牲がなければ分からなかったことだし、少なからぬ人々が初めて知った事実ではないだろうか?

 志村さんの犠牲がなければ、こうした逝去後の措置が詳細に報道されることもなかったはずである。

 亡骸になってもなお、そこまでしなければならないものなのか? 多くの方が指摘されているところだが、志村さんの犠牲はウイルス感染の脅威を世間に知らしめた。

 昭和の古い時代から平成時代の30年間にかけてビッチリ、日本の茶の間を沸かせた大芸人が令和になってまだ1年と経たないうちに逝ってしまうというのも奇しき因縁を感じてしまう。

 こう言っては何だが、「志村時代」「志村王朝」の終焉を告げる時代の節目に差し掛かっていたのかも知れない。

 まだネットもスマホも携帯電話さえも存在せず、テレビが家庭での主たる娯楽であった時代、見習いでのドリフ出演からスタートした「志村けん」という大芸人はテレビが創り上げたわけではなく、テレビを見ている人々によって創り上げられた。

 何かと好景気に沸いた昭和後期、どんなに富を手にしても繁栄を謳歌しても、いつでも人々が家族の待つ家庭へと帰って来られるようにとテレビで笑いを通じ、茶の間を沸かす大芸人を誰もが欲したのだろう。

 平成になってネット時代が到来。通信ツールの発達に伴ない、若年層を中心にテレビ離れが加速。一度は一世を風靡した人気タレントがブームの終焉や不祥事で没落していく最中、志村さんは絶えず芸能界の第一走者で在り続けた。

 特に「エロ」に関してだが、規制に次ぐ規制でテレビが「つまらなくなった」と言われる時代にあっても志村さんの存在は別格と言えるものだった。

 志村さんの存在がテレビ文化を支えていたと言うよりも、志村さんの存在そのものが戦後日本の人々が絶えず心のどこかで渇望し続けた「家庭」「茶の間」という拠り所だったのではないか。

 志村さん亡き後となった今こそ、テレビ・メディアは規制や偏向報道の在り方を見直し、人々が志村さんを通じて渇望した何かを伝える使命を取り戻さなければこの21世紀のネット時代を生き残ることは出来まい。

 私事ながら志村さんたちの番組が自身の人生に影響を与えたところは少なくない。

 あれは私がまだ中学1年生くらいの頃、時代で言うと昭和の終わり頃で平成の手前…当時、志村さんたち主演の「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」という、「8時だよ全員集合」の後継番組をやっていた。

 同番組で「Detective Story(探偵物語)」というコーナーが好きだった。世の中がまだ好景気で、ややもすると浮かれた社会的風潮もあったのだろう。子供心に私立探偵という少々不良っぽくて、且つ自由人っぽい生き方に憧れた一時期があった。

★動画ご紹介!
加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ 探偵物語#141
https://www.youtube.com/watch?v=ppHEjz_u-jE&t=928s
加トケン_場面写真1

 その後、成人するに連れ、同番組のことはすっかり忘れていたが、民族派団体を通じて保守市民運動に参画。その過程でカルト創価学会と全面衝突。その延長上で「集団ストーカー問題」に携わっているが、まったくその通りというわけではなくとも、少々探偵っぽい真似事と言うか、あの少年時代に志村さんの番組を見て憧れた生き方に「極めて近い生き方」が出来ていることに喜びを感じるとともに奇しき因縁を感じてしまう。

 人間、そのように在りたいと思って何かに突き進んでいると気付けば、いつかそう在るもの。

 ただ、現実の志村さんのように誰もがお金に不自由なく勝手気ままに…というわけにはいかないが。

 夜な夜な美女たちを引き連れては繁華街で飲み歩いては夜遊びが好きだったとされる志村さんはそれがチャイナ・ウイルス感染の原因になったのではないかとされるが、大芸人でありつつ、そういう人間臭さが志村さんの人柄が慕われる人気の秘訣だったのだろう。

 既にテレビのない生活をして10年近くが経過した私だが、それでもネット動画を通じて志村さん主演のコントやバラエティは数年前の作品まで度々視聴していた。一度見たら他の作品も見てみたくなる。いつの間にか虜に。人を惹き付ける芸人とはそういうものなのだろう。

 「志村運送」や「志村軒」「だんごの志村屋」…などなど。志村さんが描いた作品には必ず日本人が求め続けた居場所や家庭、茶の間があった。

 平成時代を通じ、令和時代の現代日本人は「そこに帰りなさい」「立ち返りなさい」と促しているかのように。

 何だか、志村さんの逝去以降、一気に強まったウイルス対策の外出自粛ムードと重なる。

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Posted by samuraiari at 00:27 │ このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
この記事へのコメント
4
志村けんさん(お茶の間の人気スターであり以下メンバーの敬称略)は米国のR&Bやソウルミュージックに精通しており、自身もドリフでギターを弾いていた(荒井注のキーボードは高木ブーが転向し担当)。「ヒゲダンス」でかかっていたあの音楽が、ソウル歌手でドラマー、テディ・ペンダーグラスの「Do Me」のアレンジですね。

ドリフの「誰かさんと誰かさん」は元歌が英国民謡であり、ビートルズの前座(志村自身は舞台にたっていない)でヴォーカル仲本工事が歌う「のっぽのサリー」映像は今も見られます。

「バカ殿」で江戸時代を身近に描き、有門先生が仰るように「だんごのしむら屋」などで古き良き日本を視聴者に届けたことに加え、志村・ドリフには新米・親英の面が少なからずあったように思います。(一方、ヒットした「海軍小唄(ズンドコ節)」「軍隊小唄(ほんとにご苦労さん)」で左翼からは槍玉に挙げられた)

志村けんさんの早すぎる逝去を悼み、ご冥福をお祈りいたします。
Posted by 名無し at 2020年04月02日 11:07
以前ツイッターで有門さんの映画評は面白いですね、などと申し上げたことがありました。最近はそういうエントリーがあまりないなあと思っていたので、久し振りの芸能ネタを興味深く拝読しました。

読み終わって改めて、志村けんが亡くなった寂しさがひとしお募ってきました。悲しいという思いもありますが、やはり寂しいという気持ちが大きいです。それは、有門さんの書かれているように一つの時代の終わりを感じさせるからだと思います。特に、これまで当たり前のようにあった価値観や風景が崩れつつあるような時代だからこそ、一層そう感じるのかもしれません。

ご紹介の動画拝見しました。私は『加トちゃんケンちゃん』はほとんど観たことがないのですが、こんな大がかりなロケもしていたのですね。「少年時代に志村さんの番組を見て憧れた生き方」というのが、松田優作の『探偵物語』でなく、加トちゃんケンちゃんの『探偵物語』というのが、いいなあと思いました(笑)。

私が一番好きだったのは『だいじょうぶだぁ』でした。あるとき友だちと見ていて、見終わったときに二人とも目が点になって「オチがないじゃん!?」と顔を見合わせたことがありました。『シリアス無言劇』と呼ばれているシリーズで、私が見た回とは違いますが、YouTubeにアップされているのがありましたので、ご紹介させていただきます。

https://youtu.be/z2TvRBNIfr8

今年は山田洋次監督で志村けん主演映画が作られる予定だったそうですね。山田洋次というと思想的にはアレな感じですが、一貫して家族をテーマに映画作りをしてきた人だと思います。この二人の組み合わせによりどんな作品が生まれたのかと思うと大変残念です。志村けん本人にとっても無念だっただろうし、何よりその映画を観た人たちの一人ひとりにどんな思いを残しただろうかと考えると、武漢肺炎が日本に与えた損失は計り知れないものがあったと思わざるを得ません。
Posted by 弁信 at 2020年04月03日 00:05
>名無しさん
志村さんには80歳代、90歳代になってもコントをやっていてもらいたかったです。
子供を残せなかったことがご当人にとっても心残りだったようですが、あれほど華やかで華麗なる人生を送られた人にも人並みの渇望があったのでしょうね。何一つ不自由がなさそうに見えましたが。
ユーチューブでよくドリフやごきげんテレビ、だいじょうぶだぁ!の動画を視聴します。何気に愛国的で日本社会の日常が描かれたコントだったように思います。

志村けんさんの逝去を惜しみ、ご冥福をお祈りします。
Posted by 有門大輔 at 2020年04月19日 07:51
>弁信さん
返信が遅くなりました。
最近、映画館で映画を観る機会が減りました。以前は知人とよく観に行ったりしましたが、洋画だと字幕を読むのが遅くなったり、派手なアクションシーンだと巻き戻しで3回くらいは観たかったりするんですよね。映画館で思わず「巻き戻ししよう」と思ったら、「あ…! これ映画館だった」なんて思ったことがあります。
もっぱら最近はDVDで鑑賞することが多いです。

志村けんさんの逝去は、いよいよ本当の意味でのテレビ文化の終焉かも知れません。
中高年から十代、二十代までの誰もが知っているのが志村けんさんという国民的コメディアンでしたが、これからは志村けんさんを知らない令和世代が台頭してくることを思うと寂しさと同時に、時代の移り変わりを実感します。

『加トちゃんケンちゃん』は昭和の後期、平成になる直前くらいの放送でしたが、まだテレビが面白いとされる時代でした。あの番組自体、制作に相当なお金をかけており、当時流行のハリウッド・スターを呼んで出演させたりしていたくらいでした。バラエティ番組で…です。
平成の初期くらいまでは昭和時代の名残りがありましたが、その後、廃れましたね。

逆に私は松田優作の探偵物語をリアルでは知りません。
Posted by 有門大輔 at 2020年04月19日 08:05