☆川崎市での戦端を切り拓いた勇者
五十六パパさんこと津崎尚道氏、追悼エントリー
本日は予定・企画していた記事を変更しての更新となります。
今年3月上旬、川崎市でのデモ主催者として右派市民勢力「行動する保守運動」関係者の間でも親しまれた五十六パパさんこと津崎尚道氏が入院先の病院で逝去なされていたことが分かりました。
飼い犬である五十六とともにデモ街宣の場に来ていたことで知られ、行動する保守運動系にあって川崎市でのデモ街宣の継続は津崎氏の奔走があったればこそでしょう。
もし、津崎氏による川崎市内での奔走がなければ、今日のように川崎市内での保守運動の隆盛と、「左翼・在日によって支配された川崎市の実態」がここまで広く周知されることがあったのかどうかは分かりません。
見方によっては津崎氏の奔走によって川崎(での保守系への妨害)が荒れたとする評価もあるのかも知れませんが、社会運動として大ヒットが出そうなところに寄り集まるのは容易なことですし、誰もが賛同し得る無難なことというのは誰でも出来ることです。
潜在的ながら、川崎市政に隠然たる影響力を及ぼす左翼・在日勢力の実態を大っぴらにするため、敢えて「火付け役」となること。それが「運動家」としての使命でもあります。
誰もがタブーにして触れない…右派・保守運動の関係者であっても触れたがらない…そこに敢えて斬り込んでこその運動家と言えるでしょう。
津崎氏らをはじめ、川崎市での保守系デモ街宣については妨害集団によるカウンターが熾烈さを極めるあまり、右派市民勢力・行動保守の間でも「よそでやれば?」という評価があったことも事実です。
しかし、川崎市で起きていることは日本の縮図。川崎市での問題を放置すれば、やがて全国各地に波及することでしょう。
左翼・在日に支配された街、市政というのは言ってみれば「戦後日本」の一形態。
ここに踏み込んでこそ、デモ主催者・運動家としての津崎氏の栄光があったのではないでしょうか?
無論、川崎市での問題は我々が生きている間には解決を見ないほどに根深い問題です。
そのために「次に繋ぐため」「次の世代に繋ぐため」の戦いを展開しなければなりません。
一たび日本人が声を挙げればヘイトスピーチ禁止条例で口を封じられて黙らされてしまうような国・社会であってはならない。そのことを津崎氏らは自らの行動を通じて示されていたと思う。
…津崎氏が主催する川崎市でのデモ行進には極力、参加させて頂いた。
あれは何年前のことだったか、凄い雨が降る中、「雨天の時こそ参加者が減るので行ってやらねば」との思いで仲間とともに集合場所へと赴いた時のこと。津崎氏が屈託のない笑顔で出迎えてくれた。
「有門さん来てくれると思わなかったよ! いや、変な意味じゃなくてさ! 有り難う! 有り難う!」と繰り返し、御礼を言われたことをつい昨日のことのように思い出す。
また別の川崎デモの帰り際、妨害集団による野次が飛び交い、参加者が警官隊に守られながら駅へと引き上げる所謂「集団下校」の途中、津崎氏は必ず私に対して「有り難う御座いました」との御礼を述べてくれたものだ。
ヘイトスピーチ規制法の成立直前、津崎氏の川崎市でのデモが妨害によって事実上、潰されてから2年を経た同市でのリベンジ・デモの後、参加者のみが集った懇親会の席上でも言われた。
「〇〇(運動関係者)に空気を入れられて有門さん来ないんじゃないかと思ってたけど、来てくれて嬉しいよ!」と、いつも鼻の先をトナカイのように赤くしながら無邪気に笑っていた姿から今も亡くなられたことが信じられません。
お酒の飲み過ぎはいつも気になっていた。
津崎氏が主催する川崎デモでは色んなことを享受してくれた。
このブログでは度々紹介しているが、川崎市でのデモ行進では忘れられないエピソードがある。
あれは8年前のデモ行進でのこと。拙ブログの過去エントリーより紹介したい。
2013年05月12日 犯罪擁護/帰化人ネオ愚連隊の牙城
★2人の女子中学生にネオ愛国市民の胎動を予兆!
5月12日当日のデモで私の胸に最も深く刻まれた未来への確かな手応え。
それはデモの開始直前、集合場所となった公園付近で地元と思われる女子中学生2人が集会の様子を見ていた。運動クラブの帰りなのか、2人ともジャージ姿。
「これってデモ? 何のデモ?」「え? 何のデモだろ?」「何のデモ? ねぇ何のデモ?」
付近にいた筆者(有門大輔)が「悪い外国人を追い出すデモだよ」と教えてあげると、2人は口々に話し始める。
「悪い外国人いっぱい居るじゃん!」「ほらフィリピン人とかね」
外国人との共生がどこよりも進行する川崎市内のこと。おそらく2人が通っている学校にも(不法滞在)フィリピン人の子供や日本人とのハーフ(混血児)が少なからず通学しているのだろう。2人の話しぶりから、ごく身近な外国人について話しているのではないかとうかがえた。あるいは教職員かも知れない。筆者の小学校時代の担任も台湾からの帰化人2世だった。
女子中学生「これ(デモ)って、どこかに中継されてるんですか?」
筆者「インターネットでね。ニコ生とか、あるでしょ」
2人は自身らの姿が映ってしまうかも知れないことを警戒してか足早に立ち去ったが、今どきの子供も共生社会の真っ只中にあるからといって決して外国人や異民族と同化しているわけではない。むしろ内面的には軋轢が生じ、反発が強まっているのではないか。
しばき隊など妨害勢力の連中が何を言おうと構わない。
10年後、あるいは20年後に彼女らの世代が「新たな愛国市民」として今日の日の丸革命・排外運動をさらに発展、昇華させる確かな手応えとしてこの日の邂逅(かいこう)を胸に刻むものである。
以上
ほんの一瞬の邂逅だったが、この時の女子中学生らとのやり取りこそは川崎市での実状と、川崎市民の本心を象徴するものだったとして記憶に残っています。
後に川崎市役所前での(ヘイト規制条例への)抗議行動にて、この時の女子中学生らとのやり取りを紹介したところ、(津崎氏にも付きまといの取材をしていた)神奈川新聞の石橋学記者がこれを「ヘイトスピーチだ!」として野次を飛ばしてきた。
その時の様子は動画にもしっかりと収録されているので、改めて掲載しましょう。
動画での23分50秒より、収録されています。
★動画紹介!
【2019.11.14】川崎市役所前に集いし保守陣営 〜石橋記者再び!〜
石橋記者らにとって何がヘイトスピーチだと言って、こういった形で川崎市民との間で外国人問題に関する「真実」を共有されることこそが不都合なヘイトスピーチであるようです。
こうした一瞬の機会であっても、一生のこととして記憶されるエピソードとて津崎氏の主催によるデモ行進がなければ得られるものではありませんでした。
川崎市での闘争にて素晴らしい軌跡を残した勇者が逝ってしまいました。
川崎デモへの参加の返礼だったのだろう、私が東京都内で主催したデモ行進に今度は津崎氏が参加してくれることが何度かあった。
当日はデモ主催者としての慌ただしさゆえ、私のほうから津崎氏に対する「おもてなし」や御礼がきちんと出来ていたのか、今となっては記憶も定かではないのが少しばかり悔やまれます。
しかし、津崎氏はそんな細かいことは気にしない豪胆な方だったでしょう。…そう言えば埼玉県川口市で開催したデモ行進に来てくれたこともありましたね。
津崎氏の残した川崎市での闘争の軌跡から、同市を日本人の手に取り戻すことに繋げたい。
合掌
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